「三才」
「三才 (三歳)」が記載されている最古の史料は、鎌倉時代最末期の『上諏訪造宮帳』です。東京大学史料編纂所が公認している根本史料の一つで「嘉暦の諏訪文書」とも言われています。執権・北条高時の時代のものです。
嘉暦四年 (一三二九年) 三月
外垣 一間 三歳狩箱
池廊三間六坪 北南駒沢之役也
「三歳」は三才、「狩箱」は金箱、「北南駒沢」は上駒沢と下駒沢です。いずれも現在でも使用されている古里地区の地名です。天正六年( 1578 年)の諏訪文書にも「飛嶽、南駒沢、北駒沢、徳長、三歳、狩箱」が記載されています。「飛嶽」は「富竹」の当て字、「徳長」は「富竹」に吸収合併された集落名です。
江戸時代の古文書に「散在」「三財」という当て字が使われている例があることから、現在の茨城県常陸太田市三才町のように「sanzai」と発音されていた可能性も考慮する必要があるかもしれません。
当時、犀川以北では有数の大きな集落だった三才を「散在」とは随分と失礼な言いようもあったものですが、「散財」でなかっただけましとするべきでしょうか。
「どこまで遡れるか」を書きましたので、次は当然「どこまでしか遡れないのか」ということになります。
この場合、「三歳」がどのように読まれていたのか(正確には、どのように訓を付されていたのか)が決定的に重要な鍵になります。しかし、残念なことに、それを明記した史料は見つかっていません。
なので、二つのパターンを考えてみます。
A. 現在と同様に「sansai」と音読されていたか、あるいは「sanzai」と読まれていた場合。
B. 「mitoshi」もしくは「mitose」と訓読されていた場合。
仮に B. のパターンであったとしたら、言語学的に「年代」について言えることはほとんどありません。「お手上げ」です。別分野からアプローチするしかありません。
ですが A. のパターンならば、最大限遡っても「平安時代末期( A.D.1100 年代)まで」と時期を限定できるのです。
注目すべきは「さんさい」の「ん」です。
実は、平安時代中期まで、撥音(ん)の表記が確定していません。撥音に該当する部分を意図的に書かなかったり、「ニ」「イ」「ム」「ウ」 で表記したり、「く」「ゝ」「レ」のような文字を用いたりしています。私たちは撥音と言えば「ん」しか思い当たらないので想像しにくいのですが、当時は少なくとも三種類の撥音、すなわち
| 舌内撥音 「-n」 | 主に「イ」「ニ」「ゝ」で代用 | 「善」「陣」「見」「難」「損」「恨」など |
| 喉内撥音 「-ŋ」 | 主に「イ」「レ」で代用 | 「経」「冥」「方」「房」「痛」など |
| 唇内撥音 「-m」 | 主に「ム」「ウ」で代用 | 「三」「品」「厭」「甘」「感」など |
が意識されていて、それらをどう表記するのか、あるいは表記しないのかで揺れていたのです。「ん」のみを表記する漢字がないということもあって、漢字を仮借した万葉仮名で書かれている『古事記』や『万葉集』には「ん」に相当する仮名が一つもありません。「天地」は「てんち」ではなくて「あめつち」、「丹波」国は「たんば」ではなくて「たには」、「豊後国」は「ぶんごのくに」ではなくて「とよくにのみちのしり」でした。
『方丈記』の著者として有名な鴨長明( 1155 ?-1216 )が書いた歌論書『無名抄』が「撥ねたる文字、入声の文字の書きにくきなどをば、皆捨てて書くなり」としているように、和歌においては「ん」を書かないということが「作法」でさえあったのです。
「ン」というカタカナが使用されている最古の史料は、康平元年( 1058 年)に書写された『法華経』とされています。これがすぐに普及したのかといえば、そんな事実はなく、実際に使われるようになってきたと認められるのは『今昔物語』が書かれた「院政期( 1100 年代)」以降ですし、ある程度普及したと言えるのは『平家物語』や『古今著聞集』が成立する鎌倉時代中期( 1200 年代半ば)以降です。
ちなみに、ひらがなの「ん」の初出は元永三年( 1120 年)書写の元永本『古今和歌集』です。
このように「ン(ん)」の変遷をふまえて考えると、A.「三歳」=「さんさい(さんざい)」が成立するならば、『上諏訪造宮帳』に記された嘉暦四年( 1329 年)を大きく遡ることは考えにくい、と言えそうなことがわかっていただけるかと思います。
問題は、「神崎」が「加無佐木」、「忌部」が「伊無倍」とされていたように、「三歳」が「サムサイ」と訓を振られていた可能性はないのか、ということです。これに関しては、映画で某准教授たちが思い描くような「美しい証明」が思いつかなかったので、徹頭徹尾、地味でドロ臭い力業、つまり帰納法を使います。
平安時代の文物を論じるときに必ず参照する史料に『和名類聚抄 (和名抄)』という「辞書」があります。源順(みなもとのしたごう)が勤子内親王の求めに応じて編纂したもので、承平年間( 931-938 年)に成立しています。『十巻本』『二十巻本』の二系統の写本が伝わっていて、その『二十巻本』に「郷里部」と呼ばれている部分があり、全国の主要な郷名が記載されています。しかも、その多くに訓が付されているのです。
この、930 年代当時、実際に使われていた地名群から「三」の使用例をリストにし、その傾向を分析してみようというわけです。
結果は、予想以上に単純でした。
3,800 超の郡名・郷名から、「三」を用いている 109 例を調べた結果。
| 「ミ」 | 105 例 | |
| 「サイ」 | 3 例 | すべて「三枝」 |
| 「サム(サン)」 | 0 例 | |
| 「三」ではないものを誤記 | 1 例 | 「佐三」 |
「三歳」が、A. の「さんさい( さんざい )」パターンであったとしたら、平安時代中期まで遡れる可能性はほぼゼロと考えていい、ということです。
仮に、当時「三歳」という地名が使用されていたとしたら、B. の「みとし(みとせ)」パターンであった、ということにもなります。使われていたら、ですが。
あなたは「sansai」派? それとも「mitoshi」派?
私?
私は「A ↓ B」派です。 ……、 (^_^;)
参考文献 山口謠司 ん 新潮新書
山口仲美 犬は「びよ」と鳴いていた 光文社新書
三才には、古代の官道・東山道駅路(以下、東山道)の「支道」が通っていて、多古駅家がおかれていました。
『延喜式』「諸国駅伝馬」は、「錦織(にしこり、旧・四賀村)」の北で分岐する支道の駅家として、「麻績、日理、多古、沼辺」の順で駅名を記しています。先にふれた高山寺本『和名類聚抄』にも「日理」を「日里」としている以外は同様の記載があります。
この支道は、現在「信越連絡路」などと呼称され「上越市方面へと抜けていた」と理解されているわけですが、個人的には、それは現在を敷衍し過ぎた端的な誤りだと考えています。理由は「沼辺」が想定されている場所から、その名も「関川」という難所を越えて行くルートへの違和感なのですが、順を追ってお話しします。
「麻績」は、現在の東筑摩郡麻績村と考えて問題ないでしょう。
「日理(わたり)」は、「渡り」すなわち川の渡し場ですから、地形と川筋の変動、そして麻績駅家からの距離を考え合わせるならば、犀川の南岸、現在の青木島から塩崎にかけてのどこかにあったと見るべきでしょう。(『更埴市誌』は篠ノ井の布施五明から岡田付近を想定しています。)
「沼辺」は、一般的には、現在の古間から野尻湖付近(最有力とされているのは野尻湖西岸)とされています。ただ、大規模な住居跡等の出土状況を考慮するならば、「沼辺」の「沼」とは野尻湖ではなく、源頼朝が舟を浮かべたという伝承が残っている中野市延徳付近にあった「遠洞湖」と考える方が合理的ではないでしょうか。室町時代からの開拓によって水田にされた場所です。野尻湖よりはずっと「沼」に近かったでしょう。
明治以前、「中野」はその名が示す通り北信濃の中心的な要地だったわけですし、千曲川・信濃川という水路も利用可能です。言うまでもなく、古くは陸路よりも水路が主要な幹線でした。東山道の支道は、北信濃の要地であり、かつ水運の要でもある中野で終わっていたと考える方が合理的ではないでしょうか。北陸道駅路に信濃への連絡路に相当する支道や駅家の記載が皆無であることも、沼辺を現在の中野付近と想定すれば当然のこととして理解可能です。つまり、この支道は官道としては越後に通じていなかった、と考えるわけです。
どちらにしても三才からの距離はほぼ同じなので、ここではこれ以上深くは論じません。
最後に「多古」ですが、「北田子」「南田子」の地名が現在まで残り、まさにその地名の場所で複数の大規模遺跡(三才田子遺跡、籠沢遺跡など)が発掘されている三才です。「日理」「沼辺」両駅家との距離も適切です。
長野市が配布しているハザードマップを見ていただければ一目瞭然なのですが、三才地区西北に位置する「北田子」「南田子」はともに千曲川の氾濫に関してはまったく水没の危険性がない場所にあります。田子川をはさんで隣接する籠沢遺跡(縄文中期から平安時代にかけての、とても大きな集落跡)も同様です。
河川の氾濫で水没することがない安全な地に駅家(駅)がおかれることは、今も昔も変わりません。
『延喜式』は 927 年に成立しています。先にふれた『和名類聚抄』の成立は承平年間( 931-938 年)です。両者は同時代の史料です。
前回、「三歳」が「さんさい」と読まれていたとすれば、平安時代中期までは遡れないと書きました。ならば、平安時代中期、三才の地は何と呼ばれていたのでしょうか? 「御歳(みとし)」でしょうか?
いいえ、三才は「多古」と呼ばれていたのです。
そして、この「多古」こそが「さんさい」の直接の起源だと考えられるのです。
鍵は「くずし字」です。
それぞれ「多」「古」と書かれているのですが、「さんさい」と読めてしまうケースを容易に想像できるかと思います。
これを思いついたきっかけは電子辞書の漢和辞典なのですが、転写できませんでしたので、東京大学史料編纂所のデータベースにある書体を写させていただき、大きさを揃えて「2階調化」しました。
難点は、くずし字書体の必然なのですが、必ず「さんさい」と読めるわけではないということです。そもそも「多古」なのですから、当然と言えば当然です。
逆に大きな利点としては、今までまったくと言っていいほど説明ができていなかった「多古(多胡や田子ではないことにご注意ください!)」から「三歳」への変遷を容易に説明できることです。
さらに、上図の「多古」をもう一度ご覧ください。「みのち」もしくは「みぬち」とも読めます。「ひらがな」や「カタカナ」が成立する以前から「水内」という地名は存在しているので、「多古」から「水内」が派生することはありえません。ですが、「水内」に「三乃知」と訓が付され、それらのくずし字から「多古」や「三才」が派生した可能性は大きいのです。
左から「水内」、その訓として「三乃知」、そして「多古」、「三才」です。
「多古」は「さんさい」の起源であり、なおかつ「水内」であった可能性も検討されるべき古名なのです。
善光寺の門前、後町付近にあった鎌倉幕府の政庁を、ほとんど根拠がないにもかかわらず「水内郡衙」とイコールで直結した説が現在も多数派を成しているわけですが、別の可能性、すなわち水内郡の中枢が想定よりも北にあった、あるいは端的に三才にあった可能性を一度は真面目に考えてみてはどうでしょうか。
全国的に一つの郡内に複数の地方官衙が併存する例はたくさんありますし、郡衙と駅家が同所にある例もかなりあります。郡司には、担当する駅家において駅長とともに直に逓送業務を監督する職務もあったので、作業効率を考えれば当然の帰結です。在所が不明な郡衙を推定する時、まず考えなくてはならないのは駅家の所在地であることは明白なのです。にもかかわらず、ほとんどの学説が今現在の長野市の姿を安直に敷衍し、主要な施設を手当たりしだい善光寺直近に想定してしまっているのです。善光寺信仰が急速に全国区になっていったのは、平安時代末期、末世思想が猖獗を極めて以降のことに過ぎません。東山道駅路にしても水内郡衙にしても、それらが主題となるのは、より前の時代、平安時代中期以前のことなのです。考えてもみてください。江戸時代でさえ、北信濃の政治的な中心地は中野であり、善光寺周辺ではありませんでした。
この際ですので、もう一点、駒沢祭祀遺跡についてお話しさせていただきます。
埴科郡衙と屋代遺跡群という例が示すように、郡衙と湧水地での祭祀遺跡が一体として存在する例を考慮するならば、三才多古遺跡、籠沢遺跡と近接する駒沢祭祀遺跡の性質も再考する必要があります。この遺跡は本当に「農耕祭祀遺跡」なのでしょうか?
当時の産業形態からして「とりあえず、農耕祭祀」としておけばハズレはないのですが、湧水地跡の周辺から500点にも及ぶ壺や高坏が出土し、勾玉、鏡を模した有孔円板、剣形など三種の神器を連想させるものや、祭祀に関係したと思われる複数の遺物が出ています。より政治色の濃い祭祀を想定してもいいのではないでしょうか。
この地に大きな地方豪族が存在したからこそ、官道・東山道が開かれ、駅家や郡衙が置かれた、という政治的な側面も否定できないように思うのです。
時代は若干前後しますが、すぐ隣には平安期の仏像の鋳型が出土した駒沢新町遺跡もあります。合わせて検討されるべきでしょう。
August 7, 2015 T. Fujimori

